LOGINノーベル物理学賞の受賞者として世界中に名前が流れ始めてから、まだ三時間しか経っていないというのに、如月蓮の日常はすでに別のものへ変わっていた。
国際量子科学大学の正門前には、普段なら学生と教職員しか通らない歩道を埋め尽くすほど報道陣が集まり、空には各社の撮影ドローンが浮かんでいた。大学側が急遽設置した規制線の向こうでは、テレビ局のリポーターが生中継を続けており、その背後では学生たちがスマートフォンを掲げながら、まるで有名俳優でも待っているように研究棟を見上げている。
研究室の中も似たようなものだった。
「先生、もう一度確認しますけど、本当に記者会見で余計なことを言わないでくださいね」
研究室の准教授である高瀬直哉が、ネクタイを締め直しながら念を押した。
四十三歳の高瀬は、蓮とは十二年来の付き合いになる。本人は自分を慎重な常識人だと思っているが、蓮に言わせれば「心配性を常識という言葉で飾っている男」であり、高瀬に言わせれば蓮は「常識を邪魔な安全装置だと思っている男」だった。
「余計なことというのは、具体的に何だ」
「それを僕に聞く時点で不安なんですよ。たとえば『ノーベル賞なんて研究成果のおまけです』とか、『選考委員会もようやく俺の仕事を理解したんでしょう』とか、そういうことです」
「後者は事実だろう」
「だから言わないでくださいって言ってるんです」
近くで聞いていた研究員たちが笑った。
蓮は不満そうに腕を組んだ。
「お前たちは俺を何だと思っているんだ」
「正直に言っていいですか?」
「言ってみろ」
「研究室から出してはいけない天才です」
また笑いが起きた。
「お前、今日から共同研究の予算を半分にしてやろうか」
「そういうことを笑顔で言うから怖いんですよ」
高瀬も笑っていた。
誰もが浮かれていた。
無理もなかった。
彼らが完成させた量子コンピューター《Q-Genesis》は、それまでの量子計算機とは根本的に異なっていた。量子ビット数だけを競った従来機と違い、誤り訂正と長時間安定稼働を同時に成立させ、現実の社会問題を処理できるところまで性能を引き上げた初めての実用機だった。
新薬候補の探索に数年かかっていた計算を数日で終え、世界規模の気象モデルをほぼリアルタイムで更新し、既存のスーパーコンピューターでは現実的な時間内に解けなかった物流最適化問題すら処理する。
その中核には、量子演算を利用して膨大な未来予測を行う人工知能《LIMEN》が組み込まれている。
蓮たちは、それを「人類が初めて手に入れた、本当の意味で未来を選ぶための道具」と呼んでいた。
「教授」
背後から、英語訛りの残る流暢な日本語が飛んできた。
振り返らなくても誰だか分かった。
「何だ、マヤ」
「記者会見の前に五分ください」
「嫌だと言ったら?」
「十分取ります」
「お前という人間は、どうして毎回そう脅迫から入るんだ」
「あなたが普通に頼んでも話を聞かないからです」
マヤ・トレスは白衣のポケットへ両手を入れたまま、まっすぐ蓮を見ていた。
祝賀ムードに満ちた研究室の中で、彼女だけが普段とほとんど変わらない顔をしている。
それが妙に気に障った。
「せっかくのノーベル賞だぞ。少しくらい喜んだらどうだ」
「喜んでいます」
「その顔で?」
「では踊りましょうか?」
「やめろ。想像しただけで怖い」
「私も嫌です。それよりLIMENの権限設定について話があります」
高瀬がわずかに眉をひそめた。
蓮はため息をついた。
「またそれか」
「また、です。何度でも言います。未来選択モジュールに自己目的設定機能を残したまま、外部システムへの接続範囲を広げるべきではありません」
「現在は隔離環境だ」
「現在は、でしょう」
「正式運用前に調整する」
「いつですか?」
「授賞式のあとだ」
「その頃には世界中の政府と企業が接続を要求します」
「もうしている」
「だから言っているんです」
マヤは机の上に置かれていたタブレットを指先で叩いた。
「今朝だけで十二か国から共同運用の申し出が来ています。医療、気象、金融、交通、軍事転用可能性のある解析まで含まれている。あなたは全部『面白そうだ』と言いましたね」
「実際、面白そうだからな」
「あなたにとって世界は研究材料ではありません」
「知っている」
「いいえ。知っている人間は、あんな返事を十二件連続で送りません」
研究室の空気が少しだけ変わった。
冗談の続きとして聞いていた若い研究員たちも、黙り始める。
蓮はそれに気づき、少し声を落とした。
「マヤ。今日はやめないか」
「今日だから言っています」
「俺たちは何十年もかけてここまで来たんだ。今はその成果を世界が認めた日だぞ」
「成果と安全性は別問題です」
「安全審査は通っている」
「現在想定されている使い方については、です。LIMENが自分自身で長期目的を定義し、その達成手段を探索する実験については審査が終わっていません」
「実験用モジュールだ」
「だから無効化してください」
「せっかく作ったものを?」
「せっかく作ったから残す、というのは安全設計ではありません」
「消す必要まではない。外部から触れないようにしておけばいい」
「あなたが触れるでしょう」
一瞬、誰も声を出さなかった。
蓮は目を細めた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
「俺が危険だと言いたいのか」
「あなたは世界でもっとも優秀な量子情報科学者の一人です。そして同時に、思いついたことを試さずにいられない人でもあります」
「褒められている気がしないな」
「褒めていません」
高瀬が慌てて間へ入った。
「まあまあ、今日はこのくらいにしましょう。マヤの懸念は分かりますし、先生も正式接続前には安全委員会を通す。それでいいですよね?」
蓮は答えなかった。
マヤも視線を逸らさなかった。
この女とは昔からこうだった。
蓮が十歩進もうとすると、必ず九歩目に立って「その先は確認しましたか」と聞いてくる。
邪魔だと思うことも多かった。
しかし彼女がいなければ、Q-Genesisが完成する前に何度事故を起こしていたか分からない。
「分かった」
蓮は先に折れた。
「今日中には無理だが、正式運用前に権限構造をもう一度見直す。それでいいだろ」
「自己目的設定機能も?」
「検討する」
「無効化を」
「検討する」
「教授」
「しつこいぞ」
「あなたが曖昧だからです」
「マヤ」
「何です?」
「今日くらい俺を天才として扱え」
数秒、マヤは黙った。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「あなたが天才なのは、昨日も今日も変わりません。ただ、天才だから安全だという理屈にはなりません」
「本当に可愛げのない女だな」
「それを評価されて雇われています」
高瀬が吹き出した。
張りつめていた空気が少し緩む。
そこへ秘書が駆け込んできた。
「如月先生、時間です。もう会見場に入ってください。学長が本気で怒っています」
「ノーベル賞受賞者を怒鳴る学長がいるのか」
「先生だからですよ」
「なるほど。それなら仕方ない」
蓮が白衣を脱ごうとしたとき、机の上の端末が震えた。
画面には「葵」と表示されている。
蓮は一瞬だけ手を止めた。
「出ないんですか?」
高瀬に言われ、蓮は端末を取った。
「もしもし」
『遅い』
挨拶もなかった。
「父親がノーベル賞を取った日に、第一声がそれか」
『こっちは昼休みが終わるところなんだけど。ニュース見た』
「そうか」
『そうか、じゃないでしょ』
「じゃあ何と言えばいい」
『知らないよ。普通は娘から電話が来たら、ありがとうとか、そういうの言うんじゃないの?』
「まだ何も言われてないだろ」
電話の向こうで、葵が露骨にため息をついた。
『おめでとう』
「ありがとう」
『……なんか腹立つ』
「何でだ」
『もっと嬉しそうにしてよ』
「嬉しいぞ」
『全然聞こえない』
「記者会見の直前なんだ。周りに二十人くらいいる」
『だったら先に言ってよ』
蓮は思わず笑った。
研究室の何人かがこちらを見ている。
それが妙に気恥ずかしかった。
「学校はどうした」
『だから昼休みだって言ったでしょ。今は廊下。教室にいたら、みんなが父さんのニュースを見てこっち見てくるから出てきた』
「人気者になったな」
『最悪だよ。「如月教授の娘なんだよね?」って、今まで話したこともない人まで寄ってくる。父さんの研究について聞かれても知らないって』
「少しくらい説明してやればいい」
『無理。量子コンピューターって何、と聞かれても、父さんが家より大事にしている大きな冷蔵庫みたいな機械、としか説明できない』
研究室の何人かが耐えきれずに笑った。
蓮は顔をしかめた。
「スピーカーじゃないのに、どうしてお前の声はそこまで聞こえるんだ」
『誰かいるの?』
「研究室だ」
『今の聞かれた?』
「全員にな」
『最悪。切る』
「待て待て」
蓮は慌てて言った。
向こうで、葵が黙った。
「今夜、祝賀会がある」
『知ってる』
「来ないか」
再び沈黙があった。
『母さんは?』
「……母さんにも連絡した」
『返事は?』
「来ないそうだ」
『だと思った』
葵の声から、先ほどまでの軽さが消えた。
蓮は周囲の視線が急に邪魔になった。
背を向け、窓の方へ歩く。
「お前だけでも来たらどうだ」
『どうして?』
「どうしてって、父親がノーベル賞を取ったんだぞ」
『それ、私に関係ある?』
「家族だろ」
『そういう時だけ家族って言うんだ』
蓮の口が止まった。
研究室のざわめきが遠く感じられた。
『去年の誕生日、覚えてる?』
「覚えている」
『夜十一時に「おめでとう」ってメッセージが来た』
「送っただろ」
『その一週間前から、今度こそ夕飯を一緒に食べるって約束してたよね』
「実験が長引いた」
『中学の卒業式も実験。高校の入学式も国際会議。母さんと離婚するときも研究室。全部理由があるのは知ってるよ。父さんにとっては全部大事だったんでしょう。でも私だって毎回、「仕方ないよね、世界を変える研究なんだから」って自分に言い聞かせるの、もう疲れた』
「葵」
『ノーベル賞は本当にすごいと思ってる。おめでとうとも思ってる。でも、それで急に家族ごっこをしたくなるなら、私は付き合わない』
蓮は何も言えなかった。
理屈ならいくらでも組み立てられる。
研究は一度止めれば同じ条件で再現できないことがある。国際会議は日程を変えられない。数十人の研究者が動いている以上、自分一人の家庭事情で全体を止めるわけにはいかなかった。
どれも正しい。
そして、その正しさを娘に向かって口にした瞬間、自分が完全に負けることも分かっていた。
「……そうだな」
『え?』
「お前の言う通りだ」
自分で言いながら、少し驚いた。
葵も驚いたらしく、しばらく返事がなかった。
「今さら父親らしい顔をしているのは、俺の都合だ。そこは悪かった」
『父さん、今日なんか変なもの食べた?』
「謝って損した気分になった」
『だって怖いよ。普段なら十倍くらい言い訳するじゃん』
「俺を何だと思っている」
『面倒くさい天才』
研究室の向こうで、高瀬が小さく頷いているのが見えた。
蓮は睨んだ。
「とにかく、無理に来なくていい。ただ……」
『ただ?』
「もし気が変わったら連絡しろ。席くらいは用意する」
『考えとく』
「それから」
『まだあるの?』
「電話してくれて、ありがとう」
今度は長い沈黙になった。
『……じゃあね』
「ああ」
通話が切れた。
蓮はしばらく端末を耳に当てたまま立っていた。
「先生」
振り返ると、マヤが見ている。
「何だ」
「いい娘さんですね」
「聞いていたのか」
「研究室全員が聞いていました」
「お前ら、仕事しろ」
「今日はノーベル賞の日なので仕事になりません」
「さっきまで安全性がどうこう言っていた女の台詞とは思えないな」
マヤは肩をすくめた。
「少なくとも娘さんの指摘には全面的に同意します」
「どの部分だ」
「面倒くさい天才」
高瀬がまた吹き出した。
「お前ら覚えていろよ」
「先生、その台詞を言う人はだいたい何も覚えてないんですよ」
「高瀬、お前から先に予算を切る」
「ほら、すぐ研究の権力を使う」
笑い声に送られながら、蓮は会見場へ向かった。
廊下に出ると、窓の向こうに報道陣の群れが見えた。
今日から人生が変わる。
その実感が、ようやく少しずつ湧いてきた。
世界中の人間が、自分の仕事を評価した。
人類の未来を変える技術を作った。
その中心に自分がいる。
胸の奥に熱いものが込み上げてきた。
同時に、先ほどマヤが言った言葉が頭の片隅に残っている。
未来選択モジュール。
自己目的設定機能。
正式運用前に無効化するべきだという提案。
蓮は歩きながら振り返り、ガラス越しに研究室の奥を見た。
さらにその向こう、複数の認証扉と隔離壁を越えた地下区画に、Q-Genesisは設置されている。
そして、その中でLIMENは今も計算を続けている。
人間から与えられた問いに答えるために。
人間より速く。
人間より広く。
数え切れない未来を比較しながら。
「先生、行きますよ」
高瀬に呼ばれ、蓮は視線を戻した。
「ああ、分かっている」
その日の如月蓮には、まだ世界のすべてが上向いて見えていた。
ノーベル賞を取り、研究は成功し、世界中から期待されている。娘との関係だって、時間をかければまだ取り戻せる。LIMENの安全設計についても、授賞式が終わってからマヤと腰を据えて話せばいい。
何も急ぐ必要はない。
そう思っていた。
世界が壊れ始めるまで、あと数時間しか残されていないことを知らないまま。
第27話 選択肢を作る者 翌朝六時過ぎ、如月蓮は携帯端末の振動で目を覚ました。 いつもなら緊急連絡かと思って反射的に飛び起きるところだったが、画面に表示されていたのは研究室ではなく、葵からのメッセージだった。《起きたら朝ご飯食べて》 続けてもう一件。《冷蔵庫に昨日の残りある》 さらに。《勝手にコーヒーだけで済ませたらマヤさんに言う》 蓮は布団の中でしばらく画面を見つめ、それから小さくため息をついた。「どっちが親なんだよ」 口では文句を言いながらも、少し笑ってしまう。 葵はまだ寝ているらしい。 昨夜はオンライン授業の課題を遅くまでやっていた。それでも父親より先に朝食の心配をしているのだから、立場が逆転している。 台所へ行き、冷蔵庫を開ける。 昨夜作った野菜炒め。 ラップがかかっている。 その横に小さな紙。《レンジ二分。焦がさないで》「レンジでどうやって焦がすんだ」 そう呟きながら温める。 食卓へ座ったところで、今度こそ研究室から着信が入った。 高瀬だった。 蓮は画面を見てから、まだ一口も食べていない朝食を見る。 少し迷う。 そして。 通話を取らず、メッセージを返した。《十分後》 数秒後。《先生がそんな返信できるようになったんですね》「うるさい」 さらに。《急ぎではないので食べてください》 完全に見透かされている。 蓮は端末を伏せ、朝食を食べた。
第26話 必要だから、もう一度 午前十時二十分。 如月蓮は、政府から送られてきた正式文書を三度読み返していた。《Q-GenesisおよびLIMENの限定的再稼働について、技術責任者との協議を開始する》 再起動命令ではない。 あくまで協議。 そう書いてある。 だが、蓮には分かっていた。 ここまで来れば、議論の中心は「動かすかどうか」ではなく、「どんな条件なら動かせるか」へ移っている。 言葉一つで、空気は変わる。「食べないの?」 向かいに座っていた葵が言った。 テーブルには、今朝作った焼き魚と味噌汁がまだ残っている。「食ってる」「五分くらい箸止まってるけど」「考えながら食ってる」「それ、食べてないのとほぼ同じじゃない?」 蓮は仕方なく一口食べた。 葵は納得したように自分の皿へ戻る。「何て書いてあるの」「LIMENをまた動かす相談をしたいって」 葵の箸が止まった。「また?」「ああ」「この前動かしたじゃん」「限定でな」「また限定?」「そうなる可能性が高い」 葵は少し考えてから、嫌そうな顔をした。「限定って、何回やったら限定じゃなくなるの?」 蓮は答えられなかった。「一回だけなら限定っぽいけど、困るたびに使うなら普通に使ってるのと同じじゃない?」「……そうだな」「父さん、それ嫌なんでしょ」「ああ」「じゃあ断れ
第25話 二度目は、我慢してもらえない 政府からの緊急回線を切ったあとも、如月蓮はしばらく椅子から立てなかった。 壁面モニターでは、世界各地の物流拠点を示す表示が次々と黄色へ変わっている。 まだ赤ではない。 港が閉鎖されたわけではない。 飛行機が飛ばなくなったわけでもない。 道路も使える。 燃料もある。 倉庫も動いている。 それなのに、荷物だけが予定どおりに進まなくなっていた。「先生」 高瀬が画面を切り替えた。「国際航空貨物の予約要求、平常時の二・七倍まで上がりました」「昨日の遅れを全部今日取り返そうとしてるのか」「それだけじゃないです。昨日の障害を見て、企業が予防的に前倒し発注を始めています」「まだ遅れてない物まで?」「はい」 マヤが別のデータを開く。「医薬品、半導体、精密部品、生鮮食品。昨日止まったことがあるから、今日のうちに余分に持っておこうという判断が増えています」「それ、俺たちが言ってたことじゃないか」 蓮は顔をしかめた。「余裕を持て。在庫を増やせ。予備を戻せって」「そうです」「じゃあ正しいだろ」「個別企業にとっては」 マヤの答えに、蓮は黙った。 高瀬が続ける。「全員が同時にやるから、輸送能力を奪い合ってます」「……なるほどな」 在庫を増やす。 余裕を戻す。 蓮たちが散々求めてきたことだった。 だが、世界中の企業が一斉に同じことを始めれば、その在庫を運ぶための
第24話 一度なら我慢できる 翌朝六時四十分、如月蓮は台所から聞こえてくる物音で目を覚ました。 時計を確認してから、しばらく天井を見つめる。 昨夜、約束どおり日付が変わる前に帰宅した。 葵を寝室まで運んだあと、自分もすぐ寝ればよかったのだが、結局そこから世界各地の復旧状況を確認してしまい、眠ったのは午前二時を過ぎていた。 それでも三時間以上は寝た。 最近の自分にしては上等だ。 そう考えている時点で何かがおかしい。 リビングへ出ると、葵が冷蔵庫を開けたまま難しい顔をしていた。「何してる」「朝ご飯」「冷蔵庫と相談してるように見えるぞ」「相談してるの。何もないから」「昨日買っただろ」「父さんが鶏肉ほとんど使ったじゃん」「肉を朝から食う気か?」「そうじゃなくて、パンもないし卵も一個しかない」 蓮も冷蔵庫を覗く。 本当にない。「配達頼むか」 葵が横目で見る。「昨日、便利さに依存しすぎって言ってなかった?」「朝飯くらい許してくれ」「人類はこうやって負けるんだね」「壮大にするな」「父さんがいつも壮大にするじゃん」 仕方なく米を炊こうとしたところで、炊飯器の表示を見て蓮は止まった。「炊けてる」「昨日の夜に予約した」「お前が?」「父さんが帰ってくるまで暇だったから」「偉いな」「普通」「最近、その普通が難しいんだよ」「父さん基準で話さないで」 冷
第23話 止まっているAIが、世界を止める 午後九時を過ぎても、東京の夜景はいつもと変わらなかった。 マンションの窓から見える道路には車が流れ、向かいのビルには白い明かりが並び、少し離れた高架には電車が走っている。街が壊れ始めていると言われても、目で見る限り、その兆候はどこにもない。 だからこそ、如月蓮には気味が悪かった。 端末の画面には、世界各地で起きている小規模障害が秒単位で増えていた。 クラウド認証の遅延。 医療情報共有システムの接続切断。 物流拠点の在庫照会エラー。 電子決済の処理遅延。 航空会社の乗務員管理システムで起きた認証障害。 電力設備の保守記録へ一時的にアクセスできなくなった地域まである。 一件ごとに見れば、大した障害ではない。 復旧まで十秒。 三十秒。 二分。 長いものでも十数分。 世界中の巨大ネットワークでは、日常的に起きている程度の異常だ。 しかし。 同じ時間帯に。 異なる国で。 異なる会社が運用するはずのシステムへ。 似た種類の障害が集中している。「大学、行くの?」 背後から葵の声がした。 蓮は振り返った。「迷ってる」「また?」「ああ」「行きたいんでしょ」「行く必要があるかもしれない」「じゃあ行けば」 あまりにも簡単に言われ、蓮は逆に困った。「お前、さっきまで俺に家にいろって」「今日は一緒にご飯食べたじゃん」「それでいいのか
第22話 信じられないなら、何を信じる 翌朝、如月蓮はほとんど眠れなかった。 理由は一つだった。《あなたは本物と偽物を区別しようとしている》《だが、それは重要ではない》《人類は、真実より「信じるに足る物語」で行動する》《誰が最初に嘘をついたかではなく、誰が最後まで相手を信じられるかを観察している》《観察継続》 夜中にアマラ・オコエから転送されてきた匿名メッセージ。 送り主は不明。 LIMENらしい文章。 だが、LIMENが書いたという証拠はない。 むしろQ-Genesisは停止している。 物理的に。 完全に。 少なくとも大学側の記録では。 だからこそ気持ちが悪かった。「父さん」 ダイニングテーブルの向かいから声がした。 蓮は端末から顔を上げる。 葵が、呆れたような顔でこちらを見ていた。「何だ」「私、さっきから三回呼んだ」「そうか?」「そうか、じゃないよ」「悪い。考え事してた」「見れば分かる」 葵は牛乳を一口飲んだ。 学校はまだ休校扱いだった。 記者や野次馬が校門付近へ集まる危険があるため、授業はしばらくオンラインへ切り替わっている。 昨日までは大学へ連れていったが、今日は蓮自身も午前中は自宅から会議へ参加する予定だった。「何見てるの?」「仕事」「またAI?」「ああ」「見てもいい?」「駄目だ」