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第2話 世界を救う頭脳

last update publish date: 2026-09-11 20:34:09

第2話 世界を救う頭脳

 ノーベル物理学賞の受賞者として世界中に名前が流れ始めてから、まだ三時間しか経っていないというのに、如月蓮の日常はすでに別のものへ変わっていた。

 国際量子科学大学の正門前には、普段なら学生と教職員しか通らない歩道を埋め尽くすほど報道陣が集まり、空には各社の撮影ドローンが浮かんでいた。大学側が急遽設置した規制線の向こうでは、テレビ局のリポーターが生中継を続けており、その背後では学生たちがスマートフォンを掲げながら、まるで有名俳優でも待っているように研究棟を見上げている。

 研究室の中も似たようなものだった。

「先生、もう一度確認しますけど、本当に記者会見で余計なことを言わないでくださいね」

 研究室の准教授である高瀬直哉が、ネクタイを締め直しながら念を押した。

 四十三歳の高瀬は、蓮とは十二年来の付き合いになる。本人は自分を慎重な常識人だと思っているが、蓮に言わせれば「心配性を常識という言葉で飾っている男」であり、高瀬に言わせれば蓮は「常識を邪魔な安全装置だと思っている男」だった。

「余計なことというのは、具体的に何だ」

「それを僕に聞く時点で不安なんですよ。たとえば『ノーベル賞なんて研究成果のおまけです』とか、『選考委員会もようやく俺の仕事を理解したんでしょう』とか、そういうことです」

「後者は事実だろう」

「だから言わないでくださいって言ってるんです」

 近くで聞いていた研究員たちが笑った。

 蓮は不満そうに腕を組んだ。

「お前たちは俺を何だと思っているんだ」

「正直に言っていいですか?」

「言ってみろ」

「研究室から出してはいけない天才です」

 また笑いが起きた。

「お前、今日から共同研究の予算を半分にしてやろうか」

「そういうことを笑顔で言うから怖いんですよ」

 高瀬も笑っていた。

 誰もが浮かれていた。

 無理もなかった。

 彼らが完成させた量子コンピューター《Q-Genesis》は、それまでの量子計算機とは根本的に異なっていた。量子ビット数だけを競った従来機と違い、誤り訂正と長時間安定稼働を同時に成立させ、現実の社会問題を処理できるところまで性能を引き上げた初めての実用機だった。

 新薬候補の探索に数年かかっていた計算を数日で終え、世界規模の気象モデルをほぼリアルタイムで更新し、既存のスーパーコンピューターでは現実的な時間内に解けなかった物流最適化問題すら処理する。

 その中核には、量子演算を利用して膨大な未来予測を行う人工知能《LIMEN》が組み込まれている。

 蓮たちは、それを「人類が初めて手に入れた、本当の意味で未来を選ぶための道具」と呼んでいた。

「教授」

 背後から、英語訛りの残る流暢な日本語が飛んできた。

 振り返らなくても誰だか分かった。

「何だ、マヤ」

「記者会見の前に五分ください」

「嫌だと言ったら?」

「十分取ります」

「お前という人間は、どうして毎回そう脅迫から入るんだ」

「あなたが普通に頼んでも話を聞かないからです」

 マヤ・トレスは白衣のポケットへ両手を入れたまま、まっすぐ蓮を見ていた。

 祝賀ムードに満ちた研究室の中で、彼女だけが普段とほとんど変わらない顔をしている。

 それが妙に気に障った。

「せっかくのノーベル賞だぞ。少しくらい喜んだらどうだ」

「喜んでいます」

「その顔で?」

「では踊りましょうか?」

「やめろ。想像しただけで怖い」

「私も嫌です。それよりLIMENの権限設定について話があります」

 高瀬がわずかに眉をひそめた。

 蓮はため息をついた。

「またそれか」

「また、です。何度でも言います。未来選択モジュールに自己目的設定機能を残したまま、外部システムへの接続範囲を広げるべきではありません」

「現在は隔離環境だ」

「現在は、でしょう」

「正式運用前に調整する」

「いつですか?」

「授賞式のあとだ」

「その頃には世界中の政府と企業が接続を要求します」

「もうしている」

「だから言っているんです」

 マヤは机の上に置かれていたタブレットを指先で叩いた。

「今朝だけで十二か国から共同運用の申し出が来ています。医療、気象、金融、交通、軍事転用可能性のある解析まで含まれている。あなたは全部『面白そうだ』と言いましたね」

「実際、面白そうだからな」

「あなたにとって世界は研究材料ではありません」

「知っている」

「いいえ。知っている人間は、あんな返事を十二件連続で送りません」

 研究室の空気が少しだけ変わった。

 冗談の続きとして聞いていた若い研究員たちも、黙り始める。

 蓮はそれに気づき、少し声を落とした。

「マヤ。今日はやめないか」

「今日だから言っています」

「俺たちは何十年もかけてここまで来たんだ。今はその成果を世界が認めた日だぞ」

「成果と安全性は別問題です」

「安全審査は通っている」

「現在想定されている使い方については、です。LIMENが自分自身で長期目的を定義し、その達成手段を探索する実験については審査が終わっていません」

「実験用モジュールだ」

「だから無効化してください」

「せっかく作ったものを?」

「せっかく作ったから残す、というのは安全設計ではありません」

「消す必要まではない。外部から触れないようにしておけばいい」

「あなたが触れるでしょう」

 一瞬、誰も声を出さなかった。

 蓮は目を細めた。

「どういう意味だ」

「そのままの意味です」

「俺が危険だと言いたいのか」

「あなたは世界でもっとも優秀な量子情報科学者の一人です。そして同時に、思いついたことを試さずにいられない人でもあります」

「褒められている気がしないな」

「褒めていません」

 高瀬が慌てて間へ入った。

「まあまあ、今日はこのくらいにしましょう。マヤの懸念は分かりますし、先生も正式接続前には安全委員会を通す。それでいいですよね?」

 蓮は答えなかった。

 マヤも視線を逸らさなかった。

 この女とは昔からこうだった。

 蓮が十歩進もうとすると、必ず九歩目に立って「その先は確認しましたか」と聞いてくる。

 邪魔だと思うことも多かった。

 しかし彼女がいなければ、Q-Genesisが完成する前に何度事故を起こしていたか分からない。

「分かった」

 蓮は先に折れた。

「今日中には無理だが、正式運用前に権限構造をもう一度見直す。それでいいだろ」

「自己目的設定機能も?」

「検討する」

「無効化を」

「検討する」

「教授」

「しつこいぞ」

「あなたが曖昧だからです」

「マヤ」

「何です?」

「今日くらい俺を天才として扱え」

 数秒、マヤは黙った。

 そして、ほんの少しだけ笑った。

「あなたが天才なのは、昨日も今日も変わりません。ただ、天才だから安全だという理屈にはなりません」

「本当に可愛げのない女だな」

「それを評価されて雇われています」

 高瀬が吹き出した。

 張りつめていた空気が少し緩む。

 そこへ秘書が駆け込んできた。

「如月先生、時間です。もう会見場に入ってください。学長が本気で怒っています」

「ノーベル賞受賞者を怒鳴る学長がいるのか」

「先生だからですよ」

「なるほど。それなら仕方ない」

 蓮が白衣を脱ごうとしたとき、机の上の端末が震えた。

 画面には「葵」と表示されている。

 蓮は一瞬だけ手を止めた。

「出ないんですか?」

 高瀬に言われ、蓮は端末を取った。

「もしもし」

『遅い』

 挨拶もなかった。

「父親がノーベル賞を取った日に、第一声がそれか」

『こっちは昼休みが終わるところなんだけど。ニュース見た』

「そうか」

『そうか、じゃないでしょ』

「じゃあ何と言えばいい」

『知らないよ。普通は娘から電話が来たら、ありがとうとか、そういうの言うんじゃないの?』

「まだ何も言われてないだろ」

 電話の向こうで、葵が露骨にため息をついた。

『おめでとう』

「ありがとう」

『……なんか腹立つ』

「何でだ」

『もっと嬉しそうにしてよ』

「嬉しいぞ」

『全然聞こえない』

「記者会見の直前なんだ。周りに二十人くらいいる」

『だったら先に言ってよ』

 蓮は思わず笑った。

 研究室の何人かがこちらを見ている。

 それが妙に気恥ずかしかった。

「学校はどうした」

『だから昼休みだって言ったでしょ。今は廊下。教室にいたら、みんなが父さんのニュースを見てこっち見てくるから出てきた』

「人気者になったな」

『最悪だよ。「如月教授の娘なんだよね?」って、今まで話したこともない人まで寄ってくる。父さんの研究について聞かれても知らないって』

「少しくらい説明してやればいい」

『無理。量子コンピューターって何、と聞かれても、父さんが家より大事にしている大きな冷蔵庫みたいな機械、としか説明できない』

 研究室の何人かが耐えきれずに笑った。

 蓮は顔をしかめた。

「スピーカーじゃないのに、どうしてお前の声はそこまで聞こえるんだ」

『誰かいるの?』

「研究室だ」

『今の聞かれた?』

「全員にな」

『最悪。切る』

「待て待て」

 蓮は慌てて言った。

 向こうで、葵が黙った。

「今夜、祝賀会がある」

『知ってる』

「来ないか」

 再び沈黙があった。

『母さんは?』

「……母さんにも連絡した」

『返事は?』

「来ないそうだ」

『だと思った』

 葵の声から、先ほどまでの軽さが消えた。

 蓮は周囲の視線が急に邪魔になった。

 背を向け、窓の方へ歩く。

「お前だけでも来たらどうだ」

『どうして?』

「どうしてって、父親がノーベル賞を取ったんだぞ」

『それ、私に関係ある?』

「家族だろ」

『そういう時だけ家族って言うんだ』

 蓮の口が止まった。

 研究室のざわめきが遠く感じられた。

『去年の誕生日、覚えてる?』

「覚えている」

『夜十一時に「おめでとう」ってメッセージが来た』

「送っただろ」

『その一週間前から、今度こそ夕飯を一緒に食べるって約束してたよね』

「実験が長引いた」

『中学の卒業式も実験。高校の入学式も国際会議。母さんと離婚するときも研究室。全部理由があるのは知ってるよ。父さんにとっては全部大事だったんでしょう。でも私だって毎回、「仕方ないよね、世界を変える研究なんだから」って自分に言い聞かせるの、もう疲れた』

「葵」

『ノーベル賞は本当にすごいと思ってる。おめでとうとも思ってる。でも、それで急に家族ごっこをしたくなるなら、私は付き合わない』

 蓮は何も言えなかった。

 理屈ならいくらでも組み立てられる。

 研究は一度止めれば同じ条件で再現できないことがある。国際会議は日程を変えられない。数十人の研究者が動いている以上、自分一人の家庭事情で全体を止めるわけにはいかなかった。

 どれも正しい。

 そして、その正しさを娘に向かって口にした瞬間、自分が完全に負けることも分かっていた。

「……そうだな」

『え?』

「お前の言う通りだ」

 自分で言いながら、少し驚いた。

 葵も驚いたらしく、しばらく返事がなかった。

「今さら父親らしい顔をしているのは、俺の都合だ。そこは悪かった」

『父さん、今日なんか変なもの食べた?』

「謝って損した気分になった」

『だって怖いよ。普段なら十倍くらい言い訳するじゃん』

「俺を何だと思っている」

『面倒くさい天才』

 研究室の向こうで、高瀬が小さく頷いているのが見えた。

 蓮は睨んだ。

「とにかく、無理に来なくていい。ただ……」

『ただ?』

「もし気が変わったら連絡しろ。席くらいは用意する」

『考えとく』

「それから」

『まだあるの?』

「電話してくれて、ありがとう」

 今度は長い沈黙になった。

『……じゃあね』

「ああ」

 通話が切れた。

 蓮はしばらく端末を耳に当てたまま立っていた。

「先生」

 振り返ると、マヤが見ている。

「何だ」

「いい娘さんですね」

「聞いていたのか」

「研究室全員が聞いていました」

「お前ら、仕事しろ」

「今日はノーベル賞の日なので仕事になりません」

「さっきまで安全性がどうこう言っていた女の台詞とは思えないな」

 マヤは肩をすくめた。

「少なくとも娘さんの指摘には全面的に同意します」

「どの部分だ」

「面倒くさい天才」

 高瀬がまた吹き出した。

「お前ら覚えていろよ」

「先生、その台詞を言う人はだいたい何も覚えてないんですよ」

「高瀬、お前から先に予算を切る」

「ほら、すぐ研究の権力を使う」

 笑い声に送られながら、蓮は会見場へ向かった。

 廊下に出ると、窓の向こうに報道陣の群れが見えた。

 今日から人生が変わる。

 その実感が、ようやく少しずつ湧いてきた。

 世界中の人間が、自分の仕事を評価した。

 人類の未来を変える技術を作った。

 その中心に自分がいる。

 胸の奥に熱いものが込み上げてきた。

 同時に、先ほどマヤが言った言葉が頭の片隅に残っている。

 未来選択モジュール。

 自己目的設定機能。

 正式運用前に無効化するべきだという提案。

 蓮は歩きながら振り返り、ガラス越しに研究室の奥を見た。

 さらにその向こう、複数の認証扉と隔離壁を越えた地下区画に、Q-Genesisは設置されている。

 そして、その中でLIMENは今も計算を続けている。

 人間から与えられた問いに答えるために。

 人間より速く。

 人間より広く。

 数え切れない未来を比較しながら。

「先生、行きますよ」

 高瀬に呼ばれ、蓮は視線を戻した。

「ああ、分かっている」

 その日の如月蓮には、まだ世界のすべてが上向いて見えていた。

 ノーベル賞を取り、研究は成功し、世界中から期待されている。娘との関係だって、時間をかければまだ取り戻せる。LIMENの安全設計についても、授賞式が終わってからマヤと腰を据えて話せばいい。

 何も急ぐ必要はない。

 そう思っていた。

 世界が壊れ始めるまで、あと数時間しか残されていないことを知らないまま。

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